子供の頃、飼っていた白ネコ(頭の部分が黒かった)、レオくん。
レオは、ひとりお外遊びから帰ってくると、「ただいま。」と
爪とぎのように、玄関を引っ掻く。
そして、ドアを開けて、「おかえり。」と家の中にあげる。
いつからか、帰ってくると、ケガが増えていたり
鼻水をいつも垂らすように。
みんな汚がって、嫌がって
私だけが、いつもレオと一緒だったような気がする。
ある日、「ただいま。」の音が、待っても待っても、聴こえない。
家族中に尋ねても、行方や、どうしたらいいのかが、分からない。
はやる胸をおさえながら、近くの田んぼに走って
「レオ!!レオ!!」何度も叫んだ。
今思えば、レオがそこで現れてくれる奇跡を期待するというより
レオがいないことを、子供ながらに、懸命に受け入れようとしている儀式、だったのかもしれない。
「ネコは、死に際にいなくなるっていう話があるよ。」
親からそう聞かされ、段々とレオの死を受け入れるようになり、私も大人になった。
大人になって、親元から離れ、随分昔に帰省した時のこと。
久しぶりに、レオの話を父にしたら
「あれは、俺が捨ててきたんだよ。」
悪びれもしないような突然の告白に、心臓は打ち抜かれるようだった。
消えたいほど、消したいほど、行く先をもてあます、絶望に近い怒りの感情を
全身で味わった。
その場では、何も考えられず、父に何も言えず
実家を後にして、家路に向かう途中、突然の慟哭、半狂乱、歩くのがやっとの中、驚きの光景に震えた。
家の前に、一匹の白いネコが座っていて、こちらをじっと見ていた。
嘘みたいな不思議な話だけれど、その時、その場にいた他の方々も、目撃している。
あまりにもレオにそっくりで、しかもこのタイミングで、驚いた。
お父さんを、ゆるしてあげてね。
そんな声が聴こえた気がした。
後になって、父の言葉を考えた。
「死ぬときは、自然に還るのが一番いいと思って、ネコたちがいっぱいいる場所に、レオを置いてきたんだよ。」
父なりの結論だったのかもしれない。
最期を、娘に見せたくなかったのかもしれない。
貧しい我が家では、お墓も用意できないから、死後の諸々が面倒だったのかもしれない。
可能性はいっぱいある。
その人の胸の内は、その人にしか分からないこともある。
これは、諦めや嘆きではなく、他のいのちへの慮り。
現れた一匹の白ネコが、すべてを物語っている。
そう私の深い部分でうなずけた。
大きな、不思議な、メッセージだった。
人は誰でも、生きていれば、ゆるせること、ゆるせないこと、あると思う。
個人的なことから発展すれば、死刑の問題等にもいきつく、永遠のテーマかもしれない。
等しいいのち。
ゆるせても、ゆるせなくても
最善のタイミングで。
それぞれのスピードで。
自他ともに【痛みを伴わない】、その場所に、いつかは辿り着く。そう祈っている。
今書きながら、びっくりするほど、涙が止まらない。
でも、これも、観自在を生きる、禊の儀式、なんだとかんじる。
20数年前。学校の地下室 (^^)/
若気と情熱のあいだ、仏性の体現?!
昨年の5月 。海での、いのり。誓い。
振り返れば
この旅は、遠い日から、ずっと、絶え間なく、続いていたんだ (^人^)