あれはだめ
これはだめ
そのエネルギーに
息苦しさを感じたら
旅立ちのサインかもしれない。
僕たちはみな
各々が各々を
味わうために生まれてきた。
誰かを支配するエネルギーも
支配するという経験をするため
支配に苦しみ逃れようとするのも
【私にとってのここちよさ】という自分の軸に気がつくため
各自の道を否定することなく
時に別離も選びながら
粛々と
己の道を進んでいけばいい。
あれはだめ
これはだめ
そのエネルギーに
息苦しさを感じたら
旅立ちのサインかもしれない。
僕たちはみな
各々が各々を
味わうために生まれてきた。
誰かを支配するエネルギーも
支配するという経験をするため
支配に苦しみ逃れようとするのも
【私にとってのここちよさ】という自分の軸に気がつくため
各自の道を否定することなく
時に別離も選びながら
粛々と
己の道を進んでいけばいい。
感動の仕方なんて
誰にも教わっていない。
各々に溢れでるもの。
【私が私を幸せにする】
ちょうど1年ほど前の想いの文にそう綴ってあったのを
たまたま見つけた。
未来の自分からじゃなくて
過去の自分からエールが届くなんて
思いもよらなかった!
あなたの光を
自分だけのものにしたい
という気持ちを
月明かりのない空に置いた。
束縛も
嫉妬も
疑いも
もう十分に経験したじゃないか。
今生のラストに
何を望む?
これでまたひとつ
自由を手に入れた。
誰かと愛を交わす前に
【私は私でオッケー】
に辿り着こう。
じっ、と
見つめあっていると
わっ、と
あふれでてくる。
いや
あふれでてくる瞬間はまだみていない。
気がつくと
真ん中からあふれでた熱で
浮かんでいるみたいになる。
その時
僕のこの皮膚のことも
この骨のことも
この血のことも
すっかり忘れてしまっているんだよ。
いつもこのブログでは
ひらめきみたいなものばかり書いています。
以前のブログ(アメブロ)のように
少しずつでも
シンギングボウルの魅力を伝えていきたいな、と思い
綴ってみました。
私のシンギングボウルの師匠は
シンギングボウルBSM(ボディ・シンギング・メソッド)
神奈川県茅ケ崎市・シンギングボウル湘南「蓮(れん)」
秋山千鶴子先生
立ち直れるのか分からないほど、
辛い出来事があった時に出逢えた
千鶴子先生のシンギングボウルトリートメント。
言葉に出来ないほどの感動でした。
自分の内部で言葉で整理しようとしても、
絡まっていく心身の苦しみを、
言葉を超えたシンギングボウルの倍音・振動が
やわらかく解きほぐし、癒してくれているような感覚を覚えました。
以前のブログで綴った想いを、ご興味ある方は読んでみてください↓
言葉に出来ない、言葉を超えているからこそ
私の全部で信頼しているものなのかもしれません。
ゲートの向こうに光が見えた。
見えたとたんに
ゲートの手前の
僕の頭上に
目が眩むほどのまぶしい光が射し込んでいることに気がついた。
わからなかったよ。
こっちも
この上なく、まばゆかったなんて。
あっちも、こっちも
もとは、どっちも同じ、ひとつの光だったなんて。
隠せない。
隠さない。
どこにいても
私を照らしてくれる
光。
ちぎれたり
くっついたり。
遠くから眺めれば
どの子もかわいい。
めんどくさくなったら
果てから眺めてみるといい。
目には見えない僕の真ん中が終わりを迎え
仮にまた巡ったとしても
このまなざしは
どの時代を探しても見つからない
【今】の
毎瞬の
僕だけの光だ。
いつも遠回りをしてきた。
すがる僕の一部分を
鋭い刃で
削ぎおとしてきた。
でも
果てから僕を見つめると
泣き出す部分を慰めて
この痛みと手を繋いで
よちよちと歩き出す僕を確かに見たんだ。
自分がまさか、ありえない。
そんな想いが
ずっとぐるぐるしてるなら
そんな僕自身の姿も
やわらかく、潔く、認めよう。
そうしたら
僕以外の誰かにとっての
あり得ない、と思えていた世界も
愛し、許せるだろう。
ここまでは出来るけど
ここからは応えられない。
だから
自分に出来る限りの思いやりは
示しているつもりだよ。
それでもなお
欲しい欲しいと乞うてくるならば
僕たちの学びのステージは
すでに変わったのかもしれない。
他者からの目に見える愛で、自分の存在価値をはかってばかりで
【自分自身を知る】という作業から
目をそむけていたら
いつまでも平行線だ。
僕は
手を離す、愛ゆえのサヨナラも
祝福なんだと思っているよ。
僕たちはいつだって
光を知っていく旅路にあるんだ。
それでもなお滲んでくる
この想いの正体を
脚色・演出なしに
しっかりと観ていく。