台所で昼食を食べていた四、五人の僧侶たちのところへ、一組の若い夫婦の参拝客が訪ねてきた。台所に通されたその夫婦は、しばらくは供されたチャイを飲んでいたのだが、やがて夫が意を決したように、僧侶たちに何事かを語りかけた。たぶん、彼らがここに参拝にくる理由となった、悩みごとか何かを打ち明けたのだと思う。
すると僧侶たちは食事の手を止め、軽く咳払いしたかと思うと、突然、朗々とした声でいっせいに声明を唱えはじめた。空気の震えがびりびりと伝わってくるほど、低く、深く、研ぎ澄まされた彼らの声は、共鳴しあって見事なハーモニーとなり、僕たちの周囲を包み込んだ。天井の通気口と戸口から外光が射し込んでくるだけの暗く質素な台所が、まるで壮麗な礼拝堂になったかのようだった。
数分後に声明が終わると、僧侶たちは何事もなかったかのように食事を続けた。本当の祈りには、場所や体裁などというものはたいして関係ないのだということを僕は知った。
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時には、大切にしていた絆が、どうにもならない強い風に引きちぎられてしまうこともある。でもそんな時は、きっとほかの絆が支えてくれる。つなぎ止めてくれる。そして人はまた立ち上がって、前を向くことができる。
『ラダックの風息 空の果てで暮らした日々』/山本 高樹 文・写真 より引用
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日に良く焼けて、よろこびも哀しみも、深く深く刻まれた顔のシワ。
鼻水が乾いて、泥だらけの子どもたちのはじける笑顔。
息をのむほどの絶景。
幾重にも重なり、はためくタルチョ。
無数の祈り。
バター茶。
きっと星座が分からないほど、こぼれ落ちそうな満天の星空。
静かな祈りを託した、至る所で揺れているチュンメの灯火。
男性特有のおふざけ(笑)のシーンも
「あたしゃ時々、ものすごく寂しくなるんだよ」というデチェンの弱音も
「俺はずっとこの土地で生きていくことしかできないんだ」と自嘲気味に笑うプンツォクも
テレビのリモコン争いをする姿も
行ったことがない場所なのに、何だか、懐かしくて、涙が出てくる。
全部が恋しくて、愛しくて、あたたかい。
「・・・・・・メッカン チョスピンレ(やりつくした)」
山本さんみたいに、きっと何かが見えてくるはずのこの道を
私も熱のおもむくまま、一歩いっぽ、大切に歩き、確かめてゆきたいと思えた
素晴らしい本でした。
ラダックの太陽と空と雲。
私も遠く離れたここで、同じ空を見ているんだ。
焦がれるあの光に、いつか逢いに行きたい。
早く逢いに行きたい。